*HLA=ヒト白血球型抗原
免疫に関する遺伝子で 細胞内外の異分子を排除する命令を出す。
その働きは重要で 細菌や病源体からカラダを守ってくれている。
さらに個人を識別する遺伝子と言われ その型は数千万通りもある。
そのためHLAは臓器移植と深いつながりがある。
実はHLAが異なる人の臓器を移植すると
カラダを守るための免疫機能が働いて拒絶反応が起こってしまう。
そのためHLAが同じ型同士で移植をする必要がある。
数千~数百万人に1人の適合率。
悲劇を繰り返すな!!プロレス団体「ノア」の社長兼選手として活躍した三沢光晴さん(享年46)が13日の試合中に頭を強打して死亡した事故を受け、大手3団体のトップが18日、都内の自民党本部に招かれ、文部科学部会・文教制度調査会の合同会議で再発防止策や健康管理について意見交換した。三沢さんの47回目の誕生日だったこの日、全日本の武藤敬司社長(46)、新日本の菅林直樹社長(44)、ノアの仲田龍・取締役統括本部長(47)らが、日本プロレス史上初となる「統一コミッション」の設立に協力していくことを表明した。
三沢さんは13日夜、広島市内での試合中に相手選手がかけた技で頭から落ち、搬送先の病院で死亡が確認された。不世出の天才レスラーを襲った悲劇-。今回の事故により、“スポーツ”という枠には収まらない、特殊な世界であるプロレスの体質に、抜本的な見直しが求められている。
会議は「格闘技興行における事故死について」という議題で行われた。元プロレスラーで、同部会長の馳浩衆院議員は「6月18日は三沢選手が生きていれば47歳の誕生日。あらためてお悔やみする」とあいさつ。現役プロレスラーの神取忍・参議院議員や、プロレスに縁のある森喜朗元首相、松浪健四郎・衆議院議員も出席した。議員からは「プロレス業界には統一された協会がなく、コミッショナーもいない。今後、どうするのか。この現状の中で最低限のルール作りをすべきではないか」との声があった。
90年6月の新日本・福岡大会で一時心肺停止状態となった経験のある馳会長は、健康管理について厳密に規定している日本プロボクシングコミッションを参考例として挙げ、「自主的に手を取り合って2度と事故を起こさないように取り組んで欲しい」とした。さらに「こういうルールのもとで選手を育成し、万一のことがあったらこうなる-というのがないと誰も安心して業界に入らない」と訴えた。
3団体は「統一ライセンス発行」について今年3、5月に会合を行い、今月24日に予定されていた会合を経て7月に発表予定だった。だが、今回の事故で、さらに進んでコミッションの設立を求められたことになる。
武藤社長は「統一的な機構ができるか、トライしていくことがプロレスのためになる」と話し、菅林社長も「統一された協会に進んでいくと思う」。仲田本部長は「1日も早く統一した協会を作らなければならない。三沢もそれを望んでいると思う」と語った。あまりにも大きな犠牲と引き替えに、プロレス界が一枚岩になりつつある。[デイリースポーツ]
思い出に残っている患者さんとのエピソードをお聞かせください。
産婦人科=おめでたい科というイメージがありますが、決しておめでたいことばかりではなく、流産や死産など、悲しい結末を迎えなくてはならないことも少なくありません。そのようなときに、できる限り力になり、サポートしたいと思っています。思い出に残っていると言えば、ダウン症のお子さんを持ったお母さんのことが忘れられません。お子さんがダウン症だと知ったときはとてもショックを受けていましたが、数年経ってお子さんを連れて来てくださり、元気に子育てをなさっている様子が伝わってきて嬉しくなったものです。私自身もハンディキャップを持つ息子の父ですが、ハンディキャップがあるからと絶望する必要もなければ、悲しむこともないのだと息子に教えてもらいました。私の経験を活かして、医療面からも精神面でもお母さんをサポートしたいと思っています。
ご長男の辻井伸行さんはピアニストとしてご活躍されていますね。
息子は目が見えないというハンディキャップがありますが、周囲の方々の協力もあり、ピアニストとして活躍する場を与えていただいています。コンサートの舞台に立つ息子の姿を見るのが一番の楽しみです。家族全員で行ければ良いのですが、父と私の二人が医院を空けるわけにはいきませんので、父と交代でコンサートに行っています。
「かなり難しいコンクールで、新曲も弾かなくてはいけない。皆さんは楽譜を見て弾いていいんですが、僕の場合は暗譜をしなければいけない。苦労しましたが、無事に弾けました」と振り返った。
「今まで本当につらいことはなく、楽しく音楽活動をしてきた。尊敬するピアニストはキーシン。弱い音をすごくきれいに出すので、僕もそういう音が出せたら。自分の音楽をもっと作り上げて、器の大きい立派なピアニストになりたい」と抱負を語った。
「好きな曲は?」との質問には「ドビュッシーやショパン」と答え、さらに「カラオケが好き。氷川きよしさんの『きよしのズンドコ節』や井上陽水さんの『少年時代』をよく歌います」。そして「両親には本当に感謝しています。早く親離れして、いいお嫁さんを見つけて安心させたいですね」と笑った。
スポーツ報知より引用しました。
三沢が、死んだ―。日本のプロレス界を代表するプロレスラー・三沢光晴さんが、帰らぬ人となる痛ましいリング事故が起きた。13日に広島市中区基町の県立総合体育館(広島グリーンアリーナ)で行われたプロレス団体「ノア」広島大会の試合中に頭部を強打し、心肺停止に陥った。市内病院の集中治療室に搬送されたが、処置のかいなく搬送先の広島大学病院で亡くなった。46歳の若さだった。
試合は午後8時10分頃始まり、事故が起きたのは試合開始25分過ぎだった。三沢さんは、メーンイベントの60分1本勝負のGHCタッグ選手権試合に若手の潮崎豪(27)と組んでタイトルに挑戦。王者組の斎藤彰俊(43)のバックドロップを受け、後頭部をマットに強打し、意識不明となった。
浅子覚トレーナー(38)がリングに上がり、声を掛けたが、三沢さんは息をしていない状態で心臓が止まっていた。観客席に居合わせた医師がリングに駆け上がり、心臓マッサージ、自動体外式除細動器(AED)による蘇生が試みられたが三沢さんは全く動かなかった。この間リングサイドのファンから「ミサワ、ミサワ」とコールが上がり、搬送後も約2300人の観客で埋まった会場は騒然とした状態が続いていたという。
複数の関係者によれば一時は心臓が動いたというが、搬送先の広島大学病院の集中治療室での懸命の救命措置のかいもなく、一度も意識が戻らぬまま午後10時10分に帰らぬ人となった。救急車に付き添った百田光雄副社長(60)が最期をみとったという。選手らは試合後、病院に駆け付け一時は解散。宿泊先の市内ホテルで待機していたが、14日午前0時前に再び病院に全員呼ばれて訃報(ふほう)を伝えられたという。まだ46歳。18日には47歳の誕生日を控えていた。
広島県警は試合関係者らから事情を聞き、当時の状況を調べている。
レスラー歴28年の三沢さんはレスリングの名門、足利工大付高出身で3年時に世界ジュニア選手権に出場、国体で優勝した。81年3月に故・ジャイアント馬場さんの全日本プロレスに入門し同年8月21日にデビュー。蝶野正洋、武藤敬司、05年7月11日に急死した橋本真也さんらと肩を並べるトップレスラーで、00年7月7日にプロレス団体のノアを旗揚げし、社長業との二足のワラジをはく激務をこなしてきた。2代目タイガーマスクとしても知られ、華麗な空中殺法や投げ技の「エメラルドフロウジョン」は代名詞。「プロレスの教科書」とも評されるほどレスリングの基本に忠実で「受け身の天才」とも言われてきた。
岩石落としとも言われるプロレス技「バックドロップ」は後方から相手を抱え上げ真っ逆さまに後頭部を叩きつける技。死因は不明だが、基本とも言われるプロレス技で受け身に失敗したとも思えない。観客の一人は「お客さんもザワザワするぐらい変だった。(最初から)三沢らしからぬ精彩を欠いた動きだった」と試合時の三沢さんの様子を話していた。
◆三沢 光晴(みさわ・みつはる)1962年6月18日、北海道・夕張市生まれ。46歳。81年8月に全日本プロレスでデビュー。以後、2代目タイガーマスクへの変身を経て全日本のエースに君臨。2000年8月に全日本を退団しノアを旗揚げし社長に就任。06年9月にはグローバル・レスリング連盟初代会長に就任した。得意技はエルボー。185センチ、118キロ。血液型O。
◆プロレスリング・ノア 2000年6月に全日本プロレスを離脱した三沢光晴を中心に結成されたプロレス団体。三沢を含む約50人の全日本離脱者が集まり、日本プロレス史上最大規模の団体となる。同年8月のディファ有明での旗揚げ戦以降、有明コロシアム、東京ドーム、日本武道館などで興行を開催。近年では全日本や新日本プロレスなど他団体との交流も見られる。地方興行の観客動員の減少や、今年に入って地上波テレビ中継が打ち切られるなど、近年は人気の低迷が目立っている。団体名の由来は旧約聖書に登場する「ノアの箱舟」から。
Author:(株)メルベーユ森
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1925年(大正14年)創業
今秋で98年目を迎えました
◎SS級認定眼鏡士
◎眼鏡作製技能士
◎石川県公安委員会許可
第511060011995